天才とは?「4月生まれの子は成績もいいしスポーツもできる」という不自然な事実から私達が反省すべきこと
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今日のブログのテーマは「才能」について。スポーツなり勉強なり音楽なり、なんでもいいから本気で取り組んだことがある人が一度は思ったことがあること、それは「自分には才能がない」ということ。それはどんなレベルでも起こりうることです。欧州挑戦をするものの挫折し、若くして一度は自転車から降りた岡篤志選手が、デルコ・マルセイユ・プロヴァンスに加入して欧州再挑戦をするという知らせを聞いて感化されたというのもこのテーマで書いてみようと思ったきっかけです。

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(△デルコ・マルセイユはパリ〜ニースやパリ〜ルーベといったワールドツアーレースにも参加している強豪プロコン。)

天才とはなにか?あらゆるゲームは芸術であり、天才的なプレーは芸術的な表現である

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そもそも才能があるということ、天才であるということは何を示すのでしょうか?全然自転車関係ないのですが、現代芸術家の村上隆さんの言葉を引用しながら考えてみましょう。ちなみに村上さんの言葉を選んだことには他意もなければロジックもありません。まず一つの考え方は、「同じレベルの人がいない」ということ。

天才とは何かといったら、特にピカソの場合は、いまだにぼくが思うのはブランディングと、あと同時代に、他に彼レベルの作家がいなかったというだけなのではないかということです。

つまり、あくまで相対的なものだという考え方です。地元の中高で「天才」と呼ばれた少年が東大に進学して「凡人」になってしまうメカニズム、日本で「天才」と呼ばれた選手が世界で「凡人」になってしまうメカニズムはこれで説明できます。ちなみに、村上さんは「ピカソは才能がない」とこき下ろしていますがそれは別の話。

もう一つ、天才であるということは、「超越的な表現能力を持った表現者」ということだという考えもあります。

ぼくの解釈では、天才とは「超越的な表現能力を持った表現者」のことです。これはフットボールプレイヤーでも、イチローのような野球選手でも、そういう表現者だといっていいと思います。

さらに引用しましょう。

「AKB48 は芸術か」という問いがあったとしましょう。AKB48 の活動すべてを見て芸術とはいえないかもしれません。しかし、AKB48 の成立する仕組み、ルールを理解し、新人だった女の子が必死にパフォーマンスをし、そしてあるコンサートでは、素人に毛の生えたような頃とは見違えるようなとてもすばらしい歌声を披露したら、「おお、これは芸術的である」と言えるでしょう。それはルールと状況とファンたちが造り上げる脳内コンテクストの中での話です。サッカーでもコンサートでも、これは本当に天才的なトリックプレイだと、今日は本当にすごかったという時、人間があるフォーマットの中でプレイする時に出てくる表現域が期待値を超えた時、それは芸術的な表現であると、言うことができると思います。

つまり、誰もが予想もしないWOW!と言わせるパフォーマンス、誰しもの期待を上回ることができる選手を人々は「天才」と呼び、そのプレーを「芸術的だ」と評するのです。サガンやマチューなんかはこの典型でしょう。前者と比べ、こちらはあくまで主観的な話ですね。

ただ、こちらの主観的な考え方をするにしても、天才であるということは何か他の人とは「違い」があるという相対的な側面もあるということに変わりはありません。

ではなぜその違いは生まれるのか?いかにしてチャンピオンは生まれるのか?その答えを、以前の記事では「チャンピオンになれるかは才能で決まる。才能を開花させられるかどうかは、その選手自身が正しい練習をできるかで決まる。コーチはそのサポート役になりうる」と結論づけました(詳しくは下記)。

言葉で言うのは簡単ですが、指導者にとっては実はとても大変なことです。なぜなら指導する選手が一人じゃないから。もしすべての生活を投げ打ってマンツーマンで対応できるのであれば、指導者も正しくサポートできるかもしれません。しかし残念ながら、人ひとりの時間とリソースというものは有限であって、伸びない選手をどうしても短期間で見限ってしまい、結果としてサポートが手薄になった選手はモチベーションも下がるという事が往々にして起こるのです。

そもそも才能は与えられたものなのか?「4月生まれの子は成績もいいしスポーツもできる」という不自然な事実

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おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるだろう

新約聖書・マタイ福音書

「条件に恵まれた研究者は優れた業績を挙げることでさらに条件に恵まれる」という「利益ー優位性の蓄積」のメカニズムの存在を指摘した人がいます。ロバート・マートン、科学社会学の創始者です。マートンは新約聖書の文言を借用しこのメカニズムを「マタイ効果」と名付けました。じつはこの「マタイ効果」、子供の成長にも関係しているのではないかという議論があるのです。その発端となったのは「4月生まれに運動ができる・勉強ができる人が多い」という統計。

この「マタイ効果」が、子供たちにも作用しているのではないかという仮説は以前から教育関係者の間で議論されていました。例えば、同学年で野球チームを作る場合、4月生まれの方が体力面でも精神面でも発育が進み、どうしても有利な場合が多い。そのため、結果的にチームのスタメンに選ばれ、より質の高い経験と指導を受けられる可能性が高まります。人はいったん成長の機会を与えられるとモチベーションが高まり、練習に励むようになりますからこれでますます差がつく。

具体的に言えば、日本のプロ野球の場合、4〜6月の選手は全体の31%に対して1〜3月の選手は16%しかいません。Jリーグも同様に、4〜6月の選手は全体の33%に対して1〜3月の選手は16%と半分にも満たない割合。人口統計的には四半期ごとの出現率は25%ずつですから、誕生月の違いにより何か違いがあると言わざるを得ないのです(NIKKEI STYLEより)。

これは勉強でも同じことが言えて、4〜6月生まれの平均偏差値と1〜3月生まれの平均偏差値とでは、およそ5〜7程度の差があることがわかっています(同じくNIKKEI STYLEより。元ネタの論文はこちら)。

私たちは常に「飲み込みの早い子」を愛でる一方、なかなか立ち上がらない子をごく短い期間で見限ってしまうという、とても良くない癖を持っています。なぜそういうことが起こるかというと教育のためのコストが無限ではないからです。これは会社における教育投資でも、社会資本としての教育機会であっても同じことですが、私たちは「より費用対効果の高い子」に教育投資を傾斜配分してしまう傾向があり、そのため初期のパフォーマンスの結果によって、できる子はさらに良い機会が与えられて教育される結果、更にパフォーマンスを高める一方、最初の打席でパフォーマンスを出せなかった子をますます苦しい立場に追いやってしまう、ということをしがちです。
<中略>
「4月生まれの子は成績もいいしスポーツもできる」という、発生学から考えればとても不自然な事実は、私たちに、人を育てるにあたって最初期のパフォーマンスの差異をあまり意識せず、もう少し長い眼で人の可能性と成長を考えてあげることが必要だ、ということを教えてくれるように思います。

才能そのものの発掘も大事ですが、そのためには「裾野を広げる」ことと同時に、指導者の育成やきめ細かい指導体制の構築も急務なのだということです。

最後に。自分の限界がわかってからがはじまり、というマインド

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「本当にひとり立ちしたい人は、なにかを育てるといいのよね。子供とかさ、鉢植えとかね。そうすると、自分の限界がわかるのよ。そこからがはじまりなのよ。」

歌うような調子で、彼女は彼女の人生哲学を語った。「いろいろ、苦労があるのね。」感動して私が言うと、

「まあね、でも人生は本当にいっぺん絶望しないと、そこで本当に捨てらんないのは自分のどこなのかをわかんないと、本当に楽しいことがなにかわかんないうちに大っきくなっちゃうと思うの。あたしは、よかったわ。」

今回の記事で紹介した「マタイ効果」のお話で伝えたかったことの一つは、一回挫折したとしても、それは条件に恵まれなかっただけかもしれないんだからすぐに諦めなくたっていいということです。それに、限界をわかったうえで、まだ頑張れるのであれば、それはそれで非常に素晴らしいことなんじゃないかということなのです。

概して日本一レベルの選手は「国内にもましてや世界にはもっと上がいる」と謙遜します。それはきっとどこかで自分の限界を知ったから。そしてその絶望を乗り越えていったから高いレベルまで辿り着いた。そう言えるのかもしれません。

 

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