笑顔の裏に隠された過去。クリス・フルームの波乱万丈な少年時代。
Photo by Simon Connellan on Unsplash

クリス・フルーム、誰もが認める現在世界最強のライダー。今更ながら、彼のことをもっと知りたいと思い2014年発売の自伝”The Climb”を読んでいます。この本、まだ少年時代のパートしか読めてませんが、めちゃくちゃおもしろいです。なんでもっと早く読んでいなかったんだろうと後悔しています。尊敬はしていても、好きというほどでもなかったフルームという選手。ライディングフォームとかダサいし。そんなフルームが、私の中で株急上昇中です。なぜかというと、波乱万丈な少年時代に彼のメンタルの強さの秘密を見た気がしたから。そして、フルームは自転車が心の底から大好きなんだと感じさせてくれるから。レースでの走りやパフォーマンス、戦略とかに加えて、選手のストーリーに触れると、おのずと違った見方ができるようになって面白いです。まだ読了してませんが、少年時代の話だけでも、と記事にしました。お楽しみください。

ケニアで事業を成功させた裕福な家庭に生まれる。

フルームの父は観光業を生業とする会社”Flamingo Tours”の経営者で、そんな父が支える裕福な家庭のもとにフルームは生まれました。何人もお手伝いさんがいる、広く快適な家。その家が位置するのは、イギリスからやってきた富裕層が暮らすエリア、カレンです。家族は、アフリカならではの生活を満喫していました。兄2人はニシキヘビをペットにしており、フルームが大事に飼っていたうさぎを餌として与えてしまったことで喧嘩になったこともあったそうです。

会社の倒産と両親の離婚。贅沢な暮らしからどん底へ。

しかし、フルームが産まれて間もなく、幸せに包まれていた家庭環境は一変します。父が経営する会社の業績が急激に悪化し始めたのです。同時に父と母の仲も険悪になり始めました。その後、事態は更に悪化。父の会社の銀行口座からお金がすべて消えてしまいます。結果、家庭は崩壊。ヒステリックに叫ぶ母と、ぶつぶつと言い返す父。今でもあの光景が忘れられないとフルームは語ります。当然の結末として、間もなく両親の結婚生活は終焉を迎えます。父は南アフリカへと去り、母はケニアにある実家へ。フルームはケニアの母のもとに残ることとなったのですが、今までのように贅沢な暮らしはできなくなりました。蝶の標本作りやニシキヘビの飼育という、一風変わった趣味に明け暮れます。

自転車との出会いと、恩師のケニア人サイクリストとの出会い。

どん底の生活の中、フルームは自転車を手に入れます。

Bikes were freedom. By the time I was twelve years old, I would often travel from Nairobi, where I lived with my mother, to South Africa, to see Noz, and on one visit I bought myself a mountain bike. It was bog standard really and came from a supermarket, but it had gears. I had never had a bike with gears before. I brought the bike back home with me to Kenya.
(拙訳)自転車は自由だ。12歳になった僕は、母の住むナイロビから父に会いに南アフリカを尋ねるようになった。南アフリカに何回か訪れたある時、僕はマウンテンバイクを買った。スーパーで売っているようなごく普通のマウンテンバイクだったけど、ギアがついていた。それが僕にとってははじめてのギア付き自転車で、ケニアに持ち帰ってそこらじゅうを走り回った。

こうしてマウンテンバイクに熱中していったフルームは、ナイロビのサイクリングのイベントで、あるサイクリストと運命の出会いを果たします。David Kinjah (デイビット・キンジャ)。ヨーロッパでレースを走った経験を持ち、ケニアにおける「自転車の父」と呼ばれている男です。

I remember him being so approachable and friendly, asking me questions. How long had I been riding? Which routes did I enjoy? I must have spoken to him for about ten minutes and at the end he said, ‘Listen, you’re not that far away from where I live – if you want to come up on a weekend, come for a ride.’ <中略> I wanted to be like him. I wanted to spend so much time on the bike that my molecules and the bike’s molecules became fused together. I wanted quads like a proper rider. Quads set like gleaming pistons beneath a slender torso and a narrow upper body. I wanted to sit on my bike and look as if I had been born for it. I wanted to race. And I wanted to win. I wanted a Kenya national team jersey. I wanted a road bike. I might even have considered dreadlocks.
(拙訳)キンジャはすごいフレンドリーで、僕にいろいろと聞いてきた。自転車乗りはじめてからどれくらいになるんだ?どのコースが一番好きか?10分くらい話したあと、キンジャは僕に言った。「そんなに離れた所に住んでないじゃないか。もしよかったら週末一緒に走りにこいよ。」僕はキンジャみたいになりたかった。彼みたいな本物の自転車選手になりたかった。レースがしたかったし、自転車に乗るために産まれてきたように見られたかった。ドレッドヘアにすることすら少し考えた。

フルームは毎週末毎週末、自宅があるカレンからキンジャが住む家に行って、彼とそのチームメイトともに遠くまでのツーリングを繰り返すようになりました。フルームの母もキンジャに厚い信頼を置いており、フルームがどんなに自転車で遠くにいこうとも、何も言わずに見守っていたそうです。母自身も、キンジャのチームのサポート役としてロードレースの世界に没頭しはじめ、フルームがチームを離れた以降もずっとチームに貢献し続けたそうです。

ケニアから南アフリカへ。はじめてのロードバイク。

ケニアに自分の居場所をみつけ、ペットのニシキヘビと共にケニア生活を謳歌していたフルームにも転機が訪れます。時々訪ねていた南アフリカで、父がフルームに告げたのです。「南アフリカの学校に来い」。理由はケニアのイギリス人学校よりも南アフリカの学校のほうが安かったから。大好きだったケニアを離れたフルームは、南アフリカの高校の寮に入ります。最初に入った学校では、軍隊のような寮生活を耐え抜き、父の事業がうまく回り始めた時点で学校を転籍。そこでフルームは自転車クラブに入ります。

Most of the guys had proper road-racing bikes and I barely managed to keep up with the group but … I loved it. Madly. Deeply. Completely. Matt said that the Friday jaunts were in preparation for a race that we were all going to be in. I was part of that ‘we’. My head was full of it.
(拙訳)僕はスーパーで買ったマウンテンバイクで、クラブのほとんどの友達はロードバイクを持っていて、ついていくだけでやっとだった。でも、最高だった。クラブの友達は、このライドはレースのためのトレーニングだと言った。その言葉が頭を離れなくなって、授業中もずっと自転車のことばかり考えていた。「僕はレースのためのトレーニングをしているんだ。しかも正式に。」

レースの面白さにどっぷりハマったフルームは、間もなく首都ヨハネスブルグのアマチュア・チーム”HI-Q Cycling Academy”に加入。フリーマーケットでケニアの民族衣装を売りさばいたり、アカデミーでトレーニングセッションの手伝いバイトをしながらお金をためたフルームは、ついにロードバイクを入手します。

Even though it was actually about three sizes too big for me (the frame was a 60-inch or perhaps even a 62-inch – today I ride a 56), I felt it was the right size for me at the time. I could grow into it. After eight months of saving, it was mine. It was Italian. A Colnago, with a blue and pink aluminium frame. It was a thing of beauty.
(拙訳)自分には大きすぎるフレームサイズのロードバイクだった。でもその当時はちょうどぴったりだ!なんて思ってたんだ。そのうち背が伸びてフィットするようになるだろうってね。今乗ってるフレームサイズより大きいのに。8ヶ月の節約の末、それはついに僕のものになった。青とピンクのアルミフレームのコルナゴ。ただただ美しいバイクだった。

HI-Qでフルームはもうひとりの恩師、ロビー・ニルセンと出会い、本格的なトレーニングの手ほどきを受け始めます。そのトレーニング方法は最新トレーニング理論を取り入れた計画性のあるものだったようで、フルームは「のちにスカイで受けたコーチングのエッセンスは、ロビーが言っていたこととほとんど同じだった」とべた褒め。

I simply needed to keep training along the same lines. If I gave time to the bike, the bike would give the strength to my legs.
(拙訳)シンプルにトレーニングをし続けるだけだ。自転車に乗ればいい。そしたら自転車が僕を強くしてくれる

白人のケニア代表。初の国際試合で手にした自信とほろ苦の世界選手権。

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南アフリカで本格的にレースを始めたフルームは、ケニアの恩師・キンジャとも連絡を取り続け、選手登録もケニアで行うこととなります。そして、恩師キンジャとともにケニアナショナルチームとしていくつかのレースを転戦。そして2006年、フルームはコモンウェルス・ゲームズ(※イギリス連邦に属する国や地域が参加して4年ごとに開催される総合競技大会。英連邦に所属する52の国と地域から70チームが参加する。)に参加します。もちろんキンジャと共に。結果はTTで17位、ロードレースで25位。

‘I fought hard for Chris to go to the Commonwealth Games in 2006,’ says Kinjah. ‘The Kenyan Federation didn’t want to send him. They thought Kenya should be represented just by black athletes. I got really mad. We fell out so badly I almost ended up getting banned from cycling by the Federation.’
(拙訳)クリス(フルーム)をコモンウェルス・ゲームズにケニア代表として参加させるために、私はケニアの自転車競技連盟と戦った。彼らはクリスを参加させたくなかったんだ。ケニア代表は黒人だけじゃないといけないと意味のわからないことを言い出したから、私は激怒した。激しく口論をしすぎて、私達は連盟から追放されかけるほどだった。

イギリスチームに帯同していた ブライルスフォード(後のスカイGM)はここで初めてフルームの存在を知ることになります。TT序盤にトップに立ち、1時間も暫定一位のホットシートに座る姿がTVに映され続けた、ケニア代表の白人として。2006年当時からイギリス人によるプロチームの構想を持っていたブライルスフォードは後にこう語ります。

“The performance he did, on the equipment he was on, that takes some doing. We thought, ‘that guy’s got something, for sure,”‘ Brailsford said. “We always thought he was a bit of a diamond in the rough, who had a huge potential.”
(拙訳)彼は安物の自転車に乗っていた。どこからともなく現れた男が、目を見張るパフォーマンスを見せている。「おいおい、だれだこいつは?」それが私がフルームを見た一番最初の印象だった。彼がその安物の自転車で見せたパフォーマンスは、たしかに本物だった。私達は思ったよ。「この男にはなにかある。とてつもない才能を持った磨かれてないダイアモンドかもしれない。」

この国際試合で自信をつけたフルームは、ヨーロッパのプロチームに入るために片っ端から自分の履歴書を送り続けます。なかなか良い反応がない中「トッププロチームで走るためにはヨーロッパでの経験が必要だ」という結論に達したフルームは、驚くべき行動にでます。ケニア自転車競技連盟の委員長のメールアカウントへ勝手にログインして、世界選手権に申し込んだのです。そんなことあり?と思うかもしれませんが、そこはケニア。そんなことありなんです。委員長が英語が苦手で、フルームは代わりに英語メールを書いたりしてあげていたので、アカウントを知っていたそうです。飛行機も宿も自分で手配し、両肩に自転車と道具一式を担いでフルームは一人ヨーロッパに向かいます。

しかし、結果はほろ苦いものでした。U23個人TTでは沿道に立っていたコミッセールに衝突して36位。U23ロードレースも特にいいところなく45位。一方で収穫もありました。ロバート・ハンターやダリル・インピーが所属する南アフリカのナショナルチームと仲良くなり、コネクションを作ったのです。ただ、しばらくの間は「Crash(落車男)」と呼ばれイジり倒されてたみたいですが。

そしてプロになる。

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コモンウェルス・ゲームズと世界選手権への出場を果たした翌年の2007年、フルームはついにプロへの切符を掴みます。南アフリカ籍のプロチーム「コニカ・ミノルタ」と契約。そのときすでに22歳。他のエリートトップ選手に比べ、決して早いタイミングとは言えません。しかし、フルームはここで満足せず、間髪入れずに更に上を目指します。どうしても本場ヨーロッパをベースに活動したい。そう思ったフルームは、レースで結果を残し、レース外ではトッププロチームへのアピールを続けることにします。

その実績と必死のアピールが実を結び、翌2008年、フルームはトッププロチーム「バルロワールド」への移籍を果たします。ツール・ド・フランスで南アフリカ選手として初めてステージ優勝を果たしたロバート・ハンターから声がかかったのです。コモンウェルス・ゲームズでケニア外に「クリス・フルーム」の名前が知れ渡ってから、わずか2年後のことでした。

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