ざんねんなレギュレーション図鑑で学ぶ、どうでしょうアフォリズム
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腹を割って話そう。

東北2泊3日生き地獄ツアー~水曜どうでしょう

語りつくされたトピックについて懲りずに語るコラム記事シリーズ、今回は「UCIレギュレーション」についてです。

社会の一員として退屈と刺激と希望と後悔が入り混じった日常を送っていますと、規則について健全ながら独創性に欠ける考えに耽ることがちょくちょくあります。そんな中でぼんやりロードレースを見ていると、UCIレギュレーションについての言及を耳にすることもあり。規則についての考えがまとまらないままオーバーフローして「まあ、どうでもいいか」となりそうだったので、ここらでひとつ整理して一旦頭の中から出しておきましょうか、といつになく高潔な人間のような気になったわけなのです。なお、高潔な気分になったのは、お菓子を爆食いしたい気持ちを抑えて文章執筆に励んでいるというこの状況がそうさせているだけであり、決して筆者が人間的に成長したからというわけではありません。

あらゆる規則に対して、人々はさまざまな、そしてどこかで聞いたことのある議論を繰り広げるわけですが、今回は”ざんねん感”(なんだそれ)をテーマに4つのパターンについて考えてみました。

靴下の長さをはじめとする、小さな問題に関する大仰な議論。

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まずは長すぎ靴下取り締まり委員会(article 1.3.033bis)をはじめとする、規則に関する"ざんねん感"漂う議論について。

これは、組織は些細な事柄にばかり議論の時間を費やしてしまう、という現象を称した「駐輪場の議論」に似た構造をもつといえるでしょう。パーキンソンの凡俗法則とも呼ばれるこの主張について、私は意識高い系新社会人だったころに読んだビジネス書で知ったのですが、ざんねんな記憶力しか持ち合わせないため、どの本にどんな文脈で書いてあったのかはぜんぜん思い出せません。

組織はもちろんですが、組織を外側から見る私達も、好んでこうした些細な問題について時間を費やします。これなら僕も/私も理解できる、という自己満足感と、なんかそこじゃないんだよな、というメタ認知的優越感とを絶妙にブレンドして悦に浸るのです。些細ゆえにあまり傷つく人がいないというのも、議論好きの私達にはたまらないポイント。

「腹を割って話そう」

これわかる!進研ゼミで問いたやつだ!と嬉しくなったからといって(そして酔っぱらっているからといって)、体調を崩して寝ている人間を「腹を割って話そう」と叩き起こして議論をはじめてはいけない。ただし相手が大泉さんである場合をのぞく。

6.8kgルール。本当はそこにはない境界線を引かなければいけないジレンマ。


つづいて、6.8㎏ルール (article 1.3.019)、伝統三角フレーム主義 (article 1.3.020)、DHバーどうしよう問題 (article 1.3.023)など、テックと繋がりが深い規則たちについて。

こうしたトピックは、定期的に、例えばUCIルールに縛られない奇抜なトライアスロンバイクが発表されるたびに話題になりますが、これらは規則の明確化が必要とされるために付随する"ざんねん感"です。6.8kgルールは(少なくとも表向きは)自転車の過度な軽量化とそれに伴う耐久性低下を懸念した、安全性を確保するための規則です。「安全を確保する」という目的論にそってこの規則を解釈すれば、6.8kgより重いか軽いかよりも、あくまで充分な安全性をもつかどうか、という点について着目すべきです。フレームへの負荷は選手の体重や路面状況によって違いますし、同じフレームでも耐久性は素材や工法、メンテナンス状況によって変わるはずですから、重量という基準は明らかに本質を捉えていません。

ではなぜ決め打ちをするか?理由として一つ上げられるのは、規則を明確化するとその有効性が発揮されやすいためです。規則はすべての人に守ってもらえるものでなければなりません。ところが、その定め方が明確でないと、規則が何を求めているのかをすべての人々に知ってもらうことはできません。そうなると、人々が規則に従うことはできません。「安全で公平な自転車に乗らなければいけない」とだけ書いてあっても、異なる価値観をもち、また画一的な解釈の訓練も受けていない私たちには何をすればいいのか分からないのです。

決め打ちしなければいけない理由はわかった。であれば、重量だけ(※実際にはほかにもあります)ではない明確かつ詳細な基準を定めればいいのではないか、というのも最も指摘です。しかし、運用を平易にする必要がある、という現実主義的な側面も忘れてはいけません。ルール運用には汗と涙とお金がかかります。基準を複雑にしすぎると規則の運用コストは増え、臨界点に達すると形骸化が起こるのです。こうした背景のもと、やむを得ずそこに本当はない境界線を引くことになる、という切なさ。それがこの”ざんねん感”の正体です。

なお技術進歩により規則の運用コストに関する課題がクリアされていくこともあります。UCIの新型レーザーテストジグ導入などはその好例となるかもしれません。

「ここをキャンプ地とする!」

ホテルを探すべきだ、という真っ当な意見を無視して「ここをキャンプ地とする!」と道端に車を止める決断を下さなければいけない時もある。もちろんその決断は賞賛されないし、恨みつらみは後世まで語り継がれる。だけど、そういうときもある。メルヘン街道ならなおさらだ。

スーパータックポジション。一貫性を保つために犠牲になる小さな間違い。そして一貫性を保てない間違い。

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スーパータック&前腕DHポジション禁止令 (article 2.2.025)、ゴール前斜行の制裁 (article 2.3.036)、コロナ陽性者のレース続行可能判断 (COVID-19 Protocols)などの議論で感じるのは、間違いや不正に対しての制裁(もしくは結果)についての"ざんねん感"です。間違いや不正を正すためにはどういう結論をとるべきかという観点からの正義、いわゆる矯正的正義を実現しようとするときに発生するざんねんな事例であるともいえるでしょう。

マリアンヌ・フォスが数秒間DHバーポジションをとって失格になり「厳しすぎる」「仕方ない」と異なる意見が生まれた事案が良い例です。規則を目的論で解釈をすれば、逃げの最中に5秒だけ前腕DHバーポジションをとったとて不安全ではないから「厳しすぎ」ます。一方、同じ規則を文面のまま解釈すれば、ルールが今後も有効性を保ち続けるために「仕方ない」判断だといえるのです。

また、一貫性を保てず「フェアじゃない!」「ダブルスタンダードだ!」と非難を浴びるのもよく見る構図。たとえばゴール前斜行をはじめとする危険行為のジャッジは一貫性の難しさを我々につきつけます。亜種パターンとしては「コロナ陽性は基本出走禁止。ただしウイルス量が少なければ出場を認める」などといった例外条件付きルール。例外条件が周知されていないゆえに先述のダブルスタンダードと混同されることもあり、盛り上がるトピックです。

「おいパイ食わねえか」

行きつけのお店の料理人に作ってもらったパイ生地を、お皿がないから今からお皿を焼く、という理由で捨てなければいけないときもある。なにせお皿を焼くのには時間がかかるのだ。そんな時は「おいパイ食わねぇか」とぼやくくらいしか、できることなどない。パイを思いっきりおみまいしてやろう。心の中で。

禁止薬物と罰則。もうひとつの境界線ともうひとつの考察。

Ⓒ水曜どうでしょう

最後は規則がそもそも「べき論」であるゆえに生まれる”ざんねん感”について。さんざん規則について語りながら、そもそも規則とは何ぞやという話をしていませんでした。ルールには大きく「である」的な法則と、「べき」的な規則があり、法則が「である」という客観的な状態であるのに対し、規則は「べき」という主観的な価値観を反映するものです。規則とは、二人以上の人間たちがともに生きようとするときに、こうしよう、と予め決めておくものであり、UCIレギュレーションは規則の範疇です。

たとえば「キンタナのトラマドール使用はUCI規則違反だが、WADA規則違反ではない」もしくは「キンタナのトラマドール使用はWADA規則違反ではないが、UCI規則違反である」という事案。これは組織が違えば価値判断が異なるという、わかりやすい「べき論」です。また実質的に同じ規則でも、表現の仕方に価値観が宿ることがあります。キンタナ案件に関する上記の二つの文章も、それぞれ受け取る印象が違うのではないでしょうか?どちらも同じことを言っているはずなのに。

価値観のジレンマについてもう少し。例えば私はドーピング問題に関して、静かな右派なわけですが、これはランス・アームストロングの一件がナイーブな思春期の少年であった私の心を荒ませた、というごく個人的な経験から生まれた価値観です。一方で、規則は時代・地域の人々の全体的な価値観を反映することで決まります。私の価値観とすべての人間が同じ価値観を持つことは不可能ですから、ある価値観を選択・反映して作られる規則というものは、その成り立ちゆえにいつまでも完璧にはなれないジレンマを抱えているのです。

この「べき論」の観点から見れば、まことしやかに囁かれている説「6.8kgルールはヨーロッパの自転車産業を守るために作られた」についての説明も可能です。そもそも規則というものがその時代・地域の価値判断を背景に作られているのであれば、ヨーロッパ産業を守る「べきだ」とか、自転車はこういう形をしている「べきだ」(色物トライアスロンバイクなんてみっともない!とかね)といった価値観が規則に紛れこむことはとても自然な成り行きといえるのです。

「なんとかインチキできんのか」

数日かけて日本中を回るはずが、日帰りでスタート地点の札幌に帰ってきてしまうこともある。なぜならミスターさんは、50枚の中からたった1枚の札幌時計台絵ハガキを見事引き当ててしまうからだ。そして、ミスターさんのミスをなかったことにして、撮り直しをしてはいけない。なぜならそれがどうでしょう班のあるべき姿だからだ。だけど大泉さんのお父さんはこう言うんだ。「なんとかインチキできんのか」と。これもまた、至極真っ当な意見である。

いちばん大事なことは、最初と最後に言うと良い。

Ⓒ水曜どうでしょう

さて、これが最も大事なポイントなのですが、本記事の主目的は、水曜どうでしょうアフォリズム(アフォリズムとはを学ぶことにあります。あくまで記事タイトルは「ざんねんなレギュレーション図鑑で学ぶ、どうでしょうアフォリズム」であって、決して「どうでしょうアフォリズムで学ぶ、ざんねんなレギュレーション図鑑」ではないのです。ということで、覚えやすいようにストーリー形式でまとめました。

私たちは他人と社会生活を営むために「ここを、キャンプ地とする!」と規則をつくっている。しかし途中で何かがおかしいなと気づいて「腹を割って話そう」と意気込むものの、なぜか些細でざんねんな議論しかできない。そして気づいたら、納得できないジャッジに「おいパイ食わねえか」とぼやいたり、規則のはざまで「なんとかインチキできんのか」とぼやいたりすることになる。こうして立派な水曜どうでしょうが繰り広げられるのだ。

今後、なにかしらの規則に関するどこかで聞いたことのある議論に巻き込まれてしまった際には、場面場面に応じたどうでしょうアフォリズムをその都度思い出してはいかがでしょうか。何度も復習をすることで、知識としてしっかり定着させることができるでしょう。

参考文献(もしくは読めば規則についてのざんねんなブログ記事が書ける本。)

…の中で引用されていた本当の元ネタ(読んでいません…)

Special thanks

 

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